フィルムスキャンs(鈴木写真変電所top)
東川線と東旭川線が分岐する旭川追分駅に102号がやって来た。  
  昭和47年は店主が某高校を何とか卒業(苦笑)して就職した年。すぐ来た夏期休暇を利用して、それっとばかりに「憧れの北海道旅行」に出かけた。
  これが人生初の連泊一人旅で、万全を期して交通公社に世話になり、旅館を大枚はたいて予約して貰うわ、急行列車は全て指定席を、オロハネ寝台車を指定するなど未知の地を訪れる期待と心配が交錯した旅となった。
  しかし、今になれば、憧れどころか痛恨の旅行であった。それは観光地巡りに比重を置いてしまったこと。
  この旭川電気軌道も時間の関係で旭川追分までしか乗車しなかった。
  旭川電気軌道を撮影した方々のサイトなどを拝見する度に、タンク車や貨車を牽引していたとか、のどかな田園風景を走っていた等をみすみす逃していたのである。
  さらに、訪問した年の大晦日を最後に廃止されてしまった。
  夕張鉄道も段階廃止が進んでいたが一部旅客と貨物は動いていた。それがどういう状況かも知らず・・・。丁度、残された運炭鉄道の剣が峰の年であったようだ。
  死ぬかと思った荒海フェリーで礼文島ゲロゲロ往復、宗谷岬、阿寒湖、時計台、原生花園、鮭を咥えた熊の彫り物に触ったり、記念撮影している間の貴重な時間があれば、三井芦別等の運炭線廻りも出来たのに・・・。
  クレジットカードや分割払いの無い時代、勤務先や店舗が信用貸ししてくれる制度をフル活用、カメラを購入、フィルムもそれなりに購入した。
  現像して残っているのは花や岬、山々などの関係ないポジの画像が多数。鉄道撮影にポジフィルムけちって何やってたんだ。
  鼻汁垂らした18才、北海道の鉄道の情報過疎な状況や収集分析力もなく、悔やみきれない「愚なスケジュールの」観光旅兼鉄道旅であった。
  本稿作成に当たり、朝日新聞「世界の鉄道’66」諸元表、鉄道ピクトリアル223号(1969.4臨時増刊) 星 良輔 様著旭川電気鉄道を参考にしました。御礼申し上げます。
 モハ100形 102号と旭川四条界隈
旭川電気鉄道モハ100形102号旭川四条駅付近
専用軌道のような路面軌道のような。
しかし~ぃ、両側の道路を渡る為に線路を盛り上げて踏み切り道状にしている 
旭川電気鉄道モハ100形102号旭川四条駅 旭川電気鉄道モハ100形トロリーホイール
↑旭川四条駅に折返で停車中の102号。
運転台に下がる紐はポール用。拡大するとポールの先のホイールの断面が見える。切り抜き↑35mm4000dpiスキャン
旭川電気鉄道モハ100形102号旭川四条駅
 旭川四条駅乗客は後方の立派な建物で発車まで待っていたようだ。←記憶なので・・・
旭川電気鉄道旭川四条駅高架工事看板と駅名標
上の102号の写真からトリミング 
 旅客列車の事実上の始発駅「旭川よじょう(四条)」。
  駅名板に「←旭川」と入ってるが実際の営業はここ旭川四条まで。
  開業当初は四条廿丁目の道路上にあった四条駅であったが貨物線を旭川駅まで延長したとき、現在の旭川四条駅を四条通り駅として開業、
  その300m先に旭川一条駅を設けて昭和2年に旅客営業を開始した。
  その間、道路上の四条駅を廃止して現在の駅名を旭川四条駅としたが、旭川一条~旭川四条間は乗客が少なく、10年後の昭和12年この区間の旅客営業を廃止した。
  当時の旭川市街地は国鉄線を境に反対側が国鉄、自衛隊がある地域で繁華街を形成していた。
  旭川電軌側は一条駅の先に広大な国鉄旭川工場があるのみで、多分であるが、国鉄職員が多い地区で、当時は旭川電軌で通勤通学、買物客などほとんどいなかったのではないか。なんせ戦前のお話。
  貨物線は東川農協の貨物を受けて盛業で旭川電気軌道の電動車が国鉄旭川駅(貨物収受線)まで廃止年まで牽引して連絡していた。←知っていたら絶対に撮影したかった(泣)        
旭川電気鉄道モハ100形102号旭川四条駅発車
 旭川四条駅を発車する旭山公園行き。結構な乗りである。
パンタの変形が著しい。左端の汽車絵踏切標識が懐かしい。右側の木組みは国鉄高架線工事
旭川電気鉄道モハ100形102号旭川四条駅付近
 ↑旭川追分駅に向かう。交通量は相当ある。 
 
 ↑旭川四条に向かう102号。車体を明るくすると真っ白になるので
車体のみ明るくしてみた画像です。
旭川四条駅から旭川追分に向かう102号。
電車後方の青信号の僅か先を矢印のように線路が右側に膨らみながら左折したところが旭川四条駅。
    車がいないこの写真は、バスが停車している先の国鉄踏切で列車の通過待ちで交通が遮断されているため。
   ↑↑、↑も偶然、遮断中のお蔭で車に邪魔されなかったもうけ写真
旭川電気鉄道モハ100形102号
劣悪な軌道状況で、ゆったり走行していた。
運転台横から線路を眺めていたら,レールが欠損した箇所なのか、
1mにも満たないレールが継がれていたところもあった。 
旭川電気鉄道モハ100形102号
両線の昼間時ヘッドは一時間に1本、旭川追分までは30分ヘッドになる。 
 四条~追分間1.7km間は道路上を走るが、堂々道路のど真ん中にプラットホームのある四条20丁目、牛朱別2駅があったらしいが、手元の乏しい文献を探しても駅の廃止時期が不明である。
  しかしながら廃止半年前という夕刻で、旭山公園行き店主2本目撮影もこの乗車率である。現在の地方私鉄の乗りより良いかも知れない。 
モハ1000形 1001号と旭川四条界隈 
 旭川電気鉄道モハ1000形1001号旭川四条駅付近
上のモハ102の画像と同じく車両のみ明るくしてみました。
肉眼的にはこんな感じだったのか~というテイです。 
 
 ↑   旭川四条駅を発車した1001号。
車体重量は30tと最大、モーターは60KW×4でトップ。
    旭川電軌の変電所は追分に1カ所あるのみで240KW×2台で送電していた。
饋電線は貧弱なので東川までの電圧降下はかなりあったと思われる。
    ひょっとしてモータ2個カットして運転??なんてしてたのか
    車両諸元には軌道車両らしく最高速度「40km/h」となっているので、
店主的には飛ばし屋の運転士さんがいたらおもしろかったのに。
   と、しょ~も無いこと考える。車が電車に接近して無くて助かり~。
旭川電気鉄道モハ1000形1001号
  のったりやってくる1001号
 沿線住民から廃止運動があった。と各文献に記載があるが、路面区間に既に駅がなくて自分達の生活には関係が無かったからなのか。
   このような路面タイプは若松市営、新潟交通、さらに駅があっても名鉄岐阜市内のように特に早朝、夜間の振動、騒音をネタに住民の反目を買っていたようである。
   出荷時期などは終夜運転で対応したので、それも一因かも。道路端を走る福島交通伊達線や花巻電鉄鉛線などもそうだったのか?
   今は情景としては熊電の黒髪町付近の数軒の軒先を走るのが有名だが、じゃぁ、江ノ電はどうなるんだ!とも・・・。
   地方都市に行くとビルが無くて開放感のある場合が多い。この時代の旭川電軌の沿線は2階建てだらけで非常に空間のある写真が撮影できた
旭川電気鉄道モハ1000形1001号旭川四条駅付近
 学生や買物客らしきを満載して東川へ向かう。
■東旭山線の6.7kmに比べ東川線は追分起点から12kmあり、ほぼ倍の距離。
 見た目の乗客も多く、偶々訪問日だけかも知れないが大型車の1000形(18.64m、定員120人)、と500形(15.94m、定員100人)で運行されていた。
■貨物営業は東川線のみ終点の農協倉庫まで運転され、朝の2時間を除いて日中が東川線の定期列車が1時間おきなので、その間に電車による貨車の牽引が行われていた。
 認可ダイヤによる貨客混合扱いの列車はあったのか無かったのか、この点について調査が出来ていない。  
不思議なのは貨物があるのに電気機関車を作らなかったこと。
原因として考えられるのは交換設備のほか道路上を走行するため、
警察にある程度の黙認をもらっても編成全長で貨車3両程度の小分け運行しか出来なかったと推察。
しかし、この貨物運賃収入は旭川電気軌道にとって大変大きかったのではないか。
■星氏の記述によればS38~40は赤字、S41に無人駅化、保線作業外注を行ってS41黒字となったが施設全体の老朽化もあって早期に廃止したいが、株主でもある東川線沿線の農協の反対が強いので難航している由
旭川市も廃止するよう圧力をかけ始めた頃と推察出来る。以来調整を続け、最終的に国鉄の高架化による線路変更もあってS47.12.31限りで営業終了となった。
↑↓前面左下隅が丸く凹んでいる。鋼棒のような積載物?にワイルドに突っ込まれたのか突っ込んだのか。どうも塗り跡から大分前に発生した気がする
旭川電気鉄道モハ1000形1001号旭川四条駅
 ↑夕方にもかかわらずかなり暑かった。運転士が清掃水をぶっかけたが、
暫くして白黒フィルムで撮影したら乾いていた。
    登場当時はポールを搭載していた(世界の鉄道66に搭載写真あり)が、
 その後外したようだ。後輩の500形とともに客用扉は自動となった。 
旭川電気鉄道モハ1000形1001号旭川四条駅
↑上記の撮影から乾いて綺麗なので掲載。しかし、ピントが車体中央に合ってしまって・・・。
左の駅名板も鮮明だぁ~。アンテナは無線アンテナ?ラジオアンテナ?
旭川電気鉄道モハ1000形1001号旭川四条駅
↑旭川電軌に訪れた理由は 
 ノーシルノーヘッダの(新車)に憧れるお年頃。
   ウズウズとこの1000形を撮りたかったから。なかなかの店主好みデザイン。
   なにを隠そう(隠しません)日本車輌東京支店1955年製(昭和30)の車両。
  富山地方鉄道の14770(後の14790)昭和30年製(本店製)と同類のデザイン。
   同じ設計者が図面を引いて渡したのか。
  正面スタイルは地鉄の運転台は左側、旭川は中央なので窓の大きさ配分が異なっている。
   微妙なさじ加減で就職先が天地の差?おでこや前照灯の感じも兄弟のようや
   運転速度や保守技術、線路・電圧状況、納入単価があったのか。吊掛仕様で車体は裾を絞らずストレート
   貨車を牽引するのだから密着自連でなく自連の方が良いのではと思う店主。この方が軽いし、貨車1~2両なら充分ですよと言われたのか。
   この車体も私鉄経営者協会技術委員会「電車改善連合委員会」の「電気鉄道車両用標準車体仕様書」制定と同年の製作だけに流れが感じられる
   
→岳南モハ1100形で概略を
 
  後方に国鉄高架橋の足が生えている。電車の後方が国鉄旭川四条駅(仮乗降場)だった。
 富山地鉄14770形14771
     ↑↓両車の台車を見てみると
    台枠の簡略化、ブレーキ構造、軸受け等相違点は多々あるが
、基本的な構造思考は同じように思える。
台車形式は追い番である。 
 旭川電気鉄道モハ1000形台車NA-5
旭川1000形NA-5(60KW×4)徹底して簡素化している
地鉄14770(改番後14790)NA4-P(110KW×4)
 
 
 ↑各種乗車券 
モハ500形  501号 
旭川電気鉄道モハ500形501号旭川四条駅
↑モハ500形
  昭和31年竣工。 1000形の1年後輩。数字も車体も先輩風を吹かせているが、店主想像によれば、
  定山渓鉄道がモハ100形4両を前面湘南形で京王帝都の2700系ショーティと言えそうな2100形を新造するために日車東京支店(蕨)に送った。
  床下機器、走行装置は送った定山渓モハ100形から移設したので、その半鋼製車体は 日車東京支店蕨の工場にガラとなって転がることになる。
  旭川は、もう1両1000形を欲しがっていた?のか、ガラ1両分を前面を新たに作り直して接合すれば1000形もどきが出来ますよ。営業が売り込んだのか

  ガラのままじゃ商品価値が無くなるので、前面をエセ1000に考えたなかなかの敏腕設計者。
  1000形製作の際に、来年も同型1両作りますと旭川側が口約束したのか、売れそうだからと、日車東京支店がガラや台車の在庫を抱えたのか?
 ただし、主電動機と制御器は旭川モハ100形と同じ37kw×4なので、手持ち品と思われる。
 台車NA-5は前年に納車したモハ1000形と同じである。
 全長は15.94m、自重は1000形より2t軽い28tだが非弱な出力故、歯車比が4.79と3形式中、一番高い。
   作り置きの余談になるが、
 現場では廃車が始まろうとしていた主流派の交直流電気機関車の主●動機の●●発注を受けた際、営業様の「この先も需要ありそうですよ」と言う言葉に製作が少々やっかいなので、経験則を信じて余分に製作したものの、結果、各事業者は●●を廃車から再用して、新品の需要が無くなり、営業様は異動、未だ巨大な鉄塊の現品多数を在庫中・・・。という業者様もある。
 単品管理や回転率等というクダラン工場管理がほぼ無い時代は、技術の進歩より「同型を長期渡って作る」ので経験則で作り置きして儲かって良かった? 
  (注)製作業者は「テッちゃん」ではないので、現場情報は余りわからない。
旭川電気鉄道モハ500形501号旭川四条駅
↑500形のポールは 
 500形はもうポール自体の在庫が無くなったのか、車庫での使用が不要になったのか、当初から無搭載。
 就役して約2年後のJ.WALLY HIGGINS氏の「昭和30年代鉄道原風景」に掲載されているS34(1957)7.26撮影の501号の写真にはポールが無い。
500形が撮影された後年になっても1000形はポールを装備して活躍している。
500形が搭載していたら、時期を同じくして一緒に撤去されてもおかしくないと言う、乱暴な「当初から搭載していない」推論です。
※ポールは車庫で使用するため必要だった。記事があるためにこの書き方してます。
これは101号の段で記載しています。
さて、訪問時の500形は旭川寄り前面に車号が記入されていなかった。
上のカラーでは前面連結器左側、車号付近も含めてペイントした後がアリアリ。
車号はその後、記入したに1票!
前面窓はタネ車の定山渓モハ100形客窓に合わせて1000形より上下に寸詰め。
ウインドシルのみ前面に回してサイドとの調和を図っている。なかなかの設計。
ワイパーは旭川電軌車両唯一、上から動作させている。100形、1000形は下から。     
前照灯は定山渓のモハ100形のモノをそのまま流用し、灯具台は頬杖台付きシリーズ?
設計者は旭川電気軌道理解ある?優しい方だったと思われる。 
連結器の自連も同様にイタダキ流用の感じだが自連の梃子がこんなに曲がりくねって取り付けられているのはナニコレ珍である。
しかし、連結器廻りの車体の切り欠きが1000形も含め、だれがこんな切り取りしたんだ!と言いたくなるような状況である。
結構、貨車と連結を失敗してゴンゴンやっちゃっていたのか?
濃霧や豪雪の土地柄、旭川電軌全車は路面で自動車と対決するためか、下両端にフォグライト、シールドビームとおぼしき補助灯(本当はメインだったりして)を装備。
旭川電気鉄道モハ500形501号車内
501号の室内。
   降車が済んで車内清掃、散水後の情景。座席のモケットはあり合わせを使用している感じ。
 旭川電気鉄道モハ500形運転台
 マスコンの形が尋常ではない。
  本来のノッチがあるところに真鍮製の箱が鎮座して、その上にとって付けたようなペラペラのマスコンが載っている。
  ノッチの回転軸の位置が、正規の位置より偏心しているようだ。直接式のTDK本体制御器になぜこのような細工をしなければならないのか。
  この時点で気がついていたら・・・。(この時の鼻垂れには無理難題)
1000形のマスコンは通常形なのに理由が知りたい
  左側に雪国仕様?の強力暖房機がものものしい。多分、600V直接暖房のような気がします。MG積んでる様子が無いし。
  店主的には一番謎な合体マシン?500形である。 
モハ100形 101、103とポール集電のナゾ 
旭川電気鉄道モハ100形101追分車庫
車庫内でパンタを使用している。
構内の架線にパンタが使えないポール分岐用の鋳鉄ガードが見あたらず、
パンタで走っているので、何でポールが要るのだろう?。
   架線吊りは全線トロリーポール用のタイプだが、これはパンタでもノープロブレム。
 ポール集電架線分岐カバー
  ↑↓架線分岐用のカバー(京福の超拡大)
架線がカバーに引き込まれ、ホイールはテーパーの付いた架線から一旦、架線が何も無い状態のところへ落ち?、車掌さんが紐で引っ張る方向の架線に誘導されるようになっている。
このため、平滑なシューで集電するパンタが来れば、鋳鉄製のカバーに舟体がぶち当たりパンタを破損してしまう。 
 ポール集電架線分岐カバー
 旭川電気鉄道追分車庫扉
↑車庫の扉上部に切り欠き
 ↑写真を拡大していたら、。 大火災の後の新築した車庫と思われるが雪の吹き込み対策?で扉を高さを低くするためか?
   パンタ化する前から使用していたポールを使えばこの切り欠きで済む。パンタを上げたまま進入すれば垂木に当たって破損する。
   500形を除く 1000形、100形、除雪車に取り付けられたポールの位置にも合点がいく。
   ※木造モハ20形は東川駅常駐でポールのところにパンタがある。(追分車庫火災で被災しなかった唯一の20形)
   ところでポールなしの2形式は他車の力で庫へ出入りしていたのか?
   100形、500形、1000形のパンタ位置から推測すれば、扉ギリギリまでパンタで充分押し込めそう
   そうだとすると、入庫のために100形はポールを装着してた??使用していた??ポールの向きも・・・。  庫内の架線はどのように??ナゾである。
旭川電気鉄道モハ100形101号追分車庫
↑↓モハ100形は開業後増備された当時の日車製半鋼車体4輪電動客車20形4両のうち3両がS24追分車庫の火災で焼失。その代替でボギー車になって3両製造された出自がある。
101号の手動ドアは鋼板製になっている。102,103号は木桟入りの木製ドア。103号の床下パイプ配管が違う等々の相違がある
国鉄キハ0番台の気動車に使用されたTR26の軸箱廻りを両サイドでコイルにした様な板枠づくりの台車。
旭川電気鉄道モハ100形103号 
旭川電気鉄道モハ100形103号
 全車直接制御手動進段なので連結した場合は後位がぶら下がったのか、よもや両車に運転士が乗って協調運転したのか?興味は尽きない。
 貨車ぶら下げるんだからMCカットとするか・・・。103号のこちらの側面が一番綺麗な床下である。 
貨車と除雪車 
 旭川電気鉄道ワ1形103号
旭川電気鉄道ワ1形標記
ワ1形103号 
 ※星様の調査ではワ100形 ※撮影当時、道外禁止黄帯入りだが、その昔は1段リンクで直通していた。
国鉄払い下げの貨車で木造有蓋貨車1段リンク、エアタンクは付いているがホース受けがない。ブレーキシューは?これでは道外禁止どころか旭川電軌内も禁止ダァ~。
バッファ連結器取付の穴有りで大正時代の連結器交換を経験している強者のようだ。検査証票は「旭電軌工」とある。ワ104はS42.12.7用途廃車  
上写真の戸車取り付け構造がなかなかシブイ。
旭川電気鉄道除雪車
↑ 国鉄線路の向こう側の市街地を走っていた旭川市街軌道から移籍してきた除雪車(無番号)
無残にもガラスを割られており、年末の廃止までに活躍したのだろうか。
夕張鉄道1972 陸別鉄道2011・12 苗穂機関区1972 札幌市電1972
丸瀬布雨宮21号 連写動画 JR北-札幌-2012 紫竹ガーデン2011
じぇじぇじぇ~!
フィルムの危機紹介
ビネガーシンドローム(フィルムが丸くなる)
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