(その3) 「信州の鎌倉」で地元民が支える  上田交通(上田電鉄)
↑塩田平に軽やかなモーター音を響かせて上田交通5000系が接近
 足元の夏草が一陣の風とともに揺れた(下之郷駅―中塩田駅間で)
※以下、写真は特記以外全て筆者撮影
 上田市は長野県東部(東信地方)の中心都市で、古くは六文銭の旗印で有名な真田氏五万八千石の城下町。現在はJR長野新幹線、そして第三セクターしなの鉄道の拠点駅となった上田から、別所温泉までの間11.6kmを走るのが上田交通(2005年10月以降は、同社の鉄道部門を子会社化した上田電鉄に社名変更)別所線である。同線が走る千曲川西岸沿いの上田盆地西半部は塩田平(しおだだいら)と呼ばれ、鎌倉時代に栄華を極めた塩田北条氏三代の里として知られている。短い治世ではあったが、この間に本拠の鎌倉と直結した仏教文化が花開き、「信州の鎌倉」と呼ばれる落ち着いた風情が今に残る。この塩田平を往来する2両編成の電車は沿線住民の貴重な生活の足として愛され、さらに別所温泉や周辺の名勝古刹を訪ねる観光客にも広く親しまれてきた。
 
 ↑上田交通の路線図(1990年当時)
 上田交通は、上田丸子電鉄と名のっていた1958年(昭33)11月に東急の系列会社となり、上田市を中心に50kmにもおよぶ路線網を持っていたが、モータリゼーションの普及により1963年(昭38)から72年(昭47)にかけて、西丸子線・丸子線・真田傍陽(そえひ)線の各線が次々に廃止された。(上田交通への改称は1969年5月)最後に残った別所線も、御他聞にもれず何度も廃止が検討されたが、沿線住民が「廃止反対期成同盟」を結成して強力な「乗って残そう」運動を展開、さらに市が「別所線対策特別委員会」を設置したことを受け会社側も徹底した経営合理化を図ってこれに応え、運転が続けられてきた。そして1986年(昭61)年10月、送電ロスの低減策として架線電圧が750Vから1,500Vに昇圧され、親会社の東急から5000系8両、5200系2両の合計10両が在来旧型車両に代わって入線、車両と施設の更新(車庫と変電所の移転)が行われたのである。

 5000系・5200系転入と引き替えに、ダークブルーとクリーム色の趣深いツートンカラーに塗られた旧型車両はすべて廃車になった。なかでも、側面客室扉の戸袋窓が楕円形をしているため「丸窓電車」と呼ばれたモハ5250形3両は沿線住民やファンにとりわけ人気が高く、引退後も現地で静態保存が行われている。なお、旧型車時代にも東急5000系転入の前例があった。「丸窓電車」モハ5250形と2両編成を組んで走る動力のない先頭車(制御車)として、クハ290形291・292の2両が1983年(昭58)11月から運転を開始していたが、この2両も在来旧型車両と運命を共にして上田での活躍は約3年の短命に終わり、他社に譲渡された東急5000系の一員としては最初に廃車となった。クハ290形は東急時代の中間付随車(サハ5350形)の一端に運転台が取り付け改造された車両で、増設された運転台の前面はオリジナルの「青ガエル」とは似て非なる切妻3枚窓の独特のスタイルとなり、ファンからは「平面ガエル」と呼ばれる異色の存在であった。
↑ 5000系入線前に主力として活躍していたモハ5250形
 楕円形の戸袋窓から「丸窓電車」の愛称で人気があった(下之郷駅で)
↑「丸窓電車」を後ろに従えて走る最初の5000系改造車クハ290形
 その前面スタイルから「平面ガエル」とも呼ばれていた(城下駅で)
 架線電圧昇圧とともに営業運転を開始した5000系8両はモハ5000形+クハ5050形の2両編成4本、5200系はモハ5200形+クハ5250形の2両編成1本の内訳で、5000系の車体塗装はアイボリーを地色に真田氏の兜を模したダークグリーンと山吹色の波形ストライプが入るデザインになった。(のち1990年に、地色のアイボリーをライトグリーンに変更)5200系は東急時代と同じくステンレス地肌を生かした無塗装で、「湯タンポ」の印象をそのまま受け継いでいる。両系の改造個所は長野電鉄車よりは少ないが、外気温にあわせて客室内を暖められるようヒーターを増設、屋根上の通風器(ベンチレーター)に冬季用の防雪板を取り付け、などの寒さや雪を防ぐ対策が施された。
↑ 真田氏の兜を模した三色の波形の塗り分けが印象的なモハ5000形+クハ5050形の2両編成
↓ 車体の地色は入線時のアイボリーからライトグリーンに変更された(上田駅で)
↑ 5200系クハ5250形+モハ5200形の2両編成
 光り輝く車体は東急時代の「湯タンポ」の愛称をそのまま引き継いでいる(上田駅で)
 では、別所線約30分のミニトリップへ… 中間改札口もなく当時のJR信越本線(在来線)ホームと1本の跨線橋で結ばれていた上田駅を出発すると、すぐに一番の急カーブ(半径120m)を左に切り、信越本線とはほぼ直角に向きを変えて千曲川を渡る。丸窓電車の時代には車庫があった上田原までは、青木峠を越えて松本に至る国道143号(松本街道)とほぼ並行して市街地を走ってゆく。
↑上田原駅で行き違う5000系の上下列車
 丸窓電車の時代にはここに車庫があり 個性豊かな旧型車両たちが顔をそろえていた
 上田原からは向きを南に変え、松本街道とは袂を分かって塩田平の田園地帯へと進み、ギザギザの稜線が連なる独鈷山(とっこさん)
(標高1,266m)を正面に眺めながらの直線コースを走って、下之郷に到着する。近くにある生島(いくしま)足島(たるしま)神社をイメージした、朱塗り格子に白壁の小ぎれいな待合室が1本の島式ホーム上に設けられた、落ち着いた雰囲気を持つ列車行き違い駅である。2線4両分の検修ピットを擁する小さな車庫が併設され、ピットと線路を挟んだ反対側(東側)には、廃止された丸子への分岐線(西丸子線。現在はバスで連絡)のホームが昔の姿のまま残っている。
↑ ギザギザの稜線が遠目にも目立つ塩田平の里山が独鈷山
 春色の山麓にはライトグリーンの車体が良く似合う(中野駅―舞田駅間で)
 下之郷を出ると広々とした田んぼの中、今度は右に大きくカーブを切って線路は西進し、独鈷山は車窓左側に移る。電車の窓から良く見える山…ということは逆に、山頂からも電車が走っているのが見えるはず…の一念から、私はカメラをザックに詰め込んで独鈷山によく登った。山頂から北側を眺め下ろす塩田平の田園風景は言わずもがなの絶景で、5000系が走る姿も、豆粒のようではあるが確かに見える。風に乗って、タイフォンやジョイントを刻む音までもが山頂に舞い上がってきた。
↑ 独鈷山山頂から眺め下ろした春の塩田平
 灌漑用の溜池が散見できる田園風景の中に上田交通の線路は見えるだろうか…
 山麓を進む5000系は、さらに中塩田、塩田町と古い町並みの軒先をかすめるように走り、中野から舞田にかけては10~25‰の緩い勾配を登ってゆく。最後の途中駅である八木沢を過ぎて別所線最急の40‰勾配を難なく登りきり、静態保存の丸窓電車を左に見て、標高550mの別所温泉駅に到着。坂を登り詰めた先の、いかにも「どんづまり」といった場所に位置する終着駅はレトロ調の駅舎が格好の被写体となり、バックに記念写真を撮る観光客が絶えない。
↑ 40‰の急勾配を登り詰めて別所温泉駅へ終着
 構内で大切に静態保存されている「丸窓電車」が出迎えてくれた
↑ 別所温泉駅で顔を並べた5000系と5200系
 東急時代から変わらぬ兄弟車両であるがプロポーションは微妙に異なっている
東急5000系 (その1) 
5000系とは
東急5000系 (その2)  
高原のアップルラインをひた走る
東急5000系(その3)
「信州の鎌倉」で地元民が支える
東急5000系(その4)
アルプス一万尺へのアプローチ
東急5000系(その5)
譲渡先各社で「セットアッパー」
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