↑  東急5000系は前面に鼻すじが通った大きな2枚窓 
下ぶくれで愛嬌のあるスタイルから「青ガエル」の愛称で親しまれた(二子玉川園駅で)
●以下、写真は特記以外全て筆者撮影
 【 長野県下の三私鉄で活躍した東急の「青ガエル」電車】
みすずかる信濃国… 長野県は善光寺平に長野電鉄、塩田平に上田電鉄、そして松本平に松本電気鉄道と三社のローカル私鉄が走っている。登山愛好家の方なら、山行のアクセスに乗車する機会があることから、馴染みのある路線ではないだろうか。
 以上の三社、「ローカル」とはいえ1980年代ごろから老朽車両の取替えや施設の近代化がそれなりの範囲で進められた結果、同じ顔をした同型の電車が東京の大手私鉄からお輿入れして(譲渡されて)各社に出そろい、車体の色を変えることでそれぞれの個性を主張しながら活躍を続けた時期があった。この電車が東京急行電鉄の5000系(および5200系)である。現在では各社とも、さらに次世代のお輿入れ車両に置き換えられて現役を引退してしまったが、私と同世代の電車として大の「お気に入り」だった東急5000系が、大都会の風を信州に吹き込みながら爽やかに走った或る一時期の記録と記憶を、ここにとどめておきたいと思う。 
 ↑ 大井町線内で5000系列車同士がすれ違い 顔が並んだ。
張殻構造の車体は上すぼまり・下ぶくれ形状で さらに裾部が絞られているため 乗降用扉の床面にはフットステップが張り出している(九品仏駅―尾山台駅間で)
 はじめに  東急5000系電車とは…
    1945年(昭20)8月の第二次大戦終戦から1953年(昭28)までの間、東急では戦後の逼迫した輸送力増強に対応して、戦災を受けた国電の車体(「焼け電」と呼ばれた)を叩き直して応急に復旧した車両の譲り受けにはじまり、80両近い在来旧型車両が増備された。
 翌1954年(昭29)の輸送力増強にさいしては、さらに6両の在来車両新造が計画されていたが、近い将来に計画されていた東横線の急行復活運転(戦時下に休止されていた)とスピードアップに応じて、新設計の高性能高速軽量電車が開発投入されることになった。
 当時、私鉄経営者協会内に「電車改善連合委員会」が組織されて、車両の軽量化と車両に搭載される主要機器の規格統一の研究が進められていた。このうち、すでに主電動機と台車については標準仕様書が制定されていた折り、新登場する東急5000系では、同仕様書の要求が全面的に取り入れられることになった。すなわち、車体は当時の大手私鉄の標準長さとなる18m(国鉄の標準長さは20m)としたほか、「超軽量」を実現するため、メーカーの東急車輛製造が独自に設計を進めてきた「張殻構造」の車体を採用。各種部品の軽量化も相乗して、ついに重量28tという在来旧型車両に比べて30%の軽量化が達成される車両が登場するに至った。車体の軽量化は、運転電力費と線路保守費の低減、台車の制輪子(ブレーキシュー)の節減、さらには走行時の騒音減少までも実現できる利点がある。
 ↑ 新型車両新造の確認申請をするために鉄道会社が運輸省(現在の国土交通省)
に提出する「車両竣功図表」と称する竣工図 東急デハ5000形のもの
  車体は、軽量化のため骨組と外板が一体となって荷重を負担できるよう側柱・横梁・垂木をリング状としたうえで、外板・床板・屋根を含めた張殻構造となった。車体断面が実用上支障のない範囲で円筒形(茶筒のような形)に近づいた設計となり、写真で見るように、それまでは「四角四面」が多かった電車のイメージを打ち破った5000系独特の外観が生み出されている。丸味を帯びた下ぶくれの全体スタイルに加えて、当時流行を見せた、国鉄の湘南電車に似た鼻筋が1本通る前面2枚窓、さらには明るいライトグリーン(萌黄色)の塗装から「青ガエル」「雨ガエル」のニックネームが付き、1954年(昭29)10月、東横線で営業運転を開始するとともに同線のイメージアップに大いに貢献した。
  ↑1961年9月に高架竣工した東横線都立大学駅に進入する上り渋谷行き5両編成
検査出場まもない先頭車は下回りのグレー塗装が美しい。
背後に見える目黒・世田谷の街並はまだ背が低く青空が大きく広がっている(1963年夏)●撮影:宮田道一
  登場当初は、先頭車(制御電動車)デハ5000形+中間車(付随車)サハ5050形+先頭車(制御電動車)デハ5000形の3両編成で、翌1955年(昭30)4月から復活した東横線急行の主役として活躍。乗客の増加にあわせて編成は4~5両に逐次増加され、車種も新たに中間電動車デハ5100形、先頭車(制御車)クハ5150形が加わって、1959年(昭34)10月までに総勢105両が出そろった。またこの間、1958年(昭33)11月には日本初のステンレス製鉄道車両5200系が東急車輛で新造され、デハ5200形+サハ5250形+デハ5200形の3両編成1本が、5000系とともに東横線で営業運転を開始している。
↑大井町線を走る5000系 この編成は5両全車が電動車からなる
編成で計5基のパンタグラフをふりかざしている(緑が丘駅で)
↑ 目蒲線では東横線登場当時と同じ3両編成で走っていた
1986年6月かぎりで東急の営業線上から姿を消している(沼部駅―鵜の木駅間で)
従来の鋼製車体では、腐蝕することを見込んで2.3mm厚の車体外板が使用されてきたが、錆びないステンレス鋼を使用すれば1.0mmまで薄くして軽量化が図れるほか、塗装をする必要がないので、補修費用の軽減、定期検査時の工場入場日数の減少が実現するなど効果は大きい。これまでは、加工しにくいとの理由で日本ではステンレスは実用化されていなかったが、5200系は次期の東急新型車両の試作を兼ねて車体外板だけをステンレスとした「セミステンレスカー」(スキンステンレスカー)で、主要機器・装置は5000系と同一である。車体は、丸味を帯びた5000系に対して「く」の字状の角ばったスタイルになり、強度を保つため車体前面・側面に何本も横向きに並んだ「コルゲーション」(太い紐のような形をしている)の印象から「湯タンポ」というニックネームも付いた。
↑ 日本最初のステンレスカーとなった東急5200系 
光り輝く車体は「湯タンポ」の愛称もうなずける(目黒駅で)
 これら5000系・5200系100両以上が全車そろって東横線で活躍したのは、以後1964年(昭39)までの5年間であった。東横線には1962年(昭37)からオールステンレスカーの新型量産車7000系、さらに1969年(昭44)以降は車体が20mに延伸された定員の多い大型ステンレスカー8000系が就役しており、「脇役」に転じた5000系・5200系は第二の運転舞台として同じ東急の大井町線・目蒲線への転出が進められた結果、1980年(昭55)3月を最後に住み慣れた東横線から姿を消したのである。
↑↓5000系・5200系とも行楽期の休日にはヘッドマークを掲げて「こどもの国線」の臨時列車に活躍した
 この5200系の編成は前から2両目に5000系の中間電動車を組み込んだ「混色編成」となっている(長津田駅で)
 このように、「本家」東急では新型ステンレスカーの増備により東横線からの撤退を余儀なくされた5000系・5200系であるが、その一方、18mの中型軽量車体で路盤に負担がかからない、1~2両の短い編成でも走ることができるなど地方ローカル私鉄を走るにはうってつけの長所を持っていた。このため、1977年(昭52)の長野電鉄を手始めに北は福島交通から南は熊本電気鉄道まで合計六社の地方私鉄に精力的に譲渡され、これらの路線の近代化・活性化にも大きな功績を残すことになる。 
↑ リンゴをイメージした華やかな塗装で「赤ガエル」に大胆変身した長野電鉄2600系 
↑ 六文銭の旗印で知られる真田氏の兜を模した塗り分けとなった上田交通(現上田電鉄)5000系
↑ アルプス一万尺へのアプローチを担い多くの岳人たちに親しまれた松本電気鉄道5000系 
東急5000系 (その1) 
5000系とは
東急5000系 (その2)  
高原のアップルラインをひた走る
東急5000系(その3)
「信州の鎌倉」で地元民が支える
東急5000系(その4)
アルプス一万尺へのアプローチ
東急5000系(その5)
譲渡先各社で「セットアッパー」
の重責を果たす
  鈴木写真変電所 
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