フィルムスキャン&プリントのS、 鈴木写真変電所
店主にとって1969年3月は中学校を卒業して高校入学までの少々春休みが長い時期だった。
  川崎市電は 京浜急行が八丁畷から高架線に駆け上がったあたりで、海側から京急の高架線をアンダークロスする勢いで向かっていた線路が90度曲がって、京急線路沿いに国鉄川崎駅付近まで伸びていた。
  ハナタレ真っ盛りの店主、春休みなのでHOゲージペーパー車両を作って塗装となれば部屋中がシンナー臭で満たされていたお年頃。
  換気?も兼ねて腰を上げ、訪問したら最終日だったという状況の写真をご覧頂ければと存じます。カラーは全てハーフ判からのトリミングです。 
 
 川崎市電との電力融通
京急OB森徳治様(京急社内報より転載させて頂きました。)
 昭和19年10月14日川崎市電が初めて古川通り〜東渡田間を開業したが
川崎市電の変電所が未完成なので、川崎市の要請により当社の変電所より
直流600Vを給電した。
その後、川崎市電の線路も順次延長され、昭和21年8月16日には全線(8.6km)
が当社川崎変電所よりの給電区域となった
昭和22年12月25日京浜本線品川〜横浜間および穴守線を昇圧のため、川崎変電所
が1500V化されたので、大師線、川崎市電への給電は鶴見変電所の担当となったが
翌23年10月26日川崎市電変電所の完成に伴い当社よりの給電を停止した。
これにより鶴見変電所(600V)はは大師線専用となったが、給電距離が長すぎ、
電圧降下が著しいので昭和24年10月16日大師線は今までと逆に川崎市電から電力の
供給を受けることとし、鶴見変電所を休止した。
昭和26年3月31日、大師線は輸送力増強のため、川崎〜塩浜間を1500Vに昇圧する
こととなり、川崎変電所からの給電に切り替えた。
なお、塩浜〜桜本間(2.3km)は600Vのまま残し、川崎市電が乗り入れ、運行に
あたったが、翌27年1月1日同区間を川崎市電に譲渡した。
こうした経過をたどり、川崎市電との電力融通は終了した。
 
 最終日は月曜日。平日なので撮影に訪れる社会人は極少なく、
市電はお別れに乗車する市民を乗せ粛々と運行されていた。
成就院前の渡田車庫にはお別れ看板が吊るされていた
 ↑タバコを吸いながらお別れ記念撮影。
↑車庫内の立ち入りはこんな状況で、店主も「ちわ〜」で入構
 ↑1、2番線の真ん中に何故か木が生えていた。枯れたのか、
もうすぐ葉っぱが出るのか?不思議な状況
     601号、502号、202号(半分)、1番線に入庫中は多分、
一世を風靡したマツダキャロルであろう。
鉄輪化改造でも行うのかなぁ〜(苦笑)
↑留置中の501号。後ろは雨樋の形から200形2両のようである。
上の写真4番線に202がいるので201、203、204のどれかであろう。
    さらに後ろは?形ガラスに反射は?形で8両入庫と判断
 形式-両数  グループ  車体長(mm)/自重/定員/ 台車/    主電動機  車体記事
 200形-4両
201、202   12400    / 16t/100/   D4/GE203/37.2KW(直接)  201=旧201(S34.12),202=旧207(S36.12)
機器流用、東洋工機車体新造
203、204   12400    / 16t/100/  D4/GE203/37.2KW(直接) S37東横車両で300形機器流用、車体新造し200形に編入
203←川市301←都電150形154←王電200形204(S2田中車両)
204←川市302←都電170形176←王電221形(S2川崎造船)
 500形-2両 501、502   12300    / 16t/  96/  D10/GCS-5/37.0KW(直接) 日本鉄道自動車※  新車:都電6000形が見本とされる。
新製とは言えD10形台車は流用と思われる
※後の東洋工機←東洋電機子会社
 600形-7両 601、602   12300  /16.5t/100/B27GE/GE203/37.2KW(間接)
台車記号中、B=ブリル
日本鉄道自動車(S27)新車 新製とは言えB27GE形台車は流用と思われる
603、604、
605,606,
607 
 12300 /16.5t/100/ D4/GE203/37.2KW(間接)
日本鉄道自動車(S28) 車体新造、下記旧車機器流用
603(203)、604(2024)、605(205)、606(211)、607(210)
 700形-2両 701、702 、
703
 12300   /19t/110/ D4/GE203/37.2KW(間接)
 日本鉄道自動車(S29) 車体新造、下記旧車機器流用
701(206)、702(207)、703(204)
車体構造が両端ドアから後位ドアを車両中央部デザインとしたが、タブレット交換の必要からS39東洋工機で他形式と同じ両端ドアに改造
 当日の昼間の状況は15両中、写真で確認出来る200形3両、500形2両、600形1両、
形式不詳2両合計8両が入庫中であった。
店主が稼働中と思われる残り7両のうち撮影出来たのは604,607,703と花電車の
装飾で番号不詳の701か702の4両であった。撮影に全く粘り無く惜しい・・・。
 ↑廃車体倉庫
 
 ↑渡田車庫から出庫に添乗?  ↓川崎駅行きの車内。車掌さん乗務のツーマン
 
 ↑シワつけないように大事に持ち帰った。なかなかのデザインで好き。
 
↑桜橋に到着する604号
 ↑ 惜別ファンの方々が「貨物が来る!」と配置についたので慌てて場所を移動するが、このざまで第1発。
 ↓撮影隊?は敏捷に他に移動されて・・・。通過中の珍事。貨物は相当長い編成で「ヨ」も組成されていた時代。
↑対向車とタブレット交換??
 ↑↓専用軌道を軽快に走るお別れ装飾電車
 
 ↑↓ハナタレ見本で・・・。
 ↑↓成就院前の渡田車庫への入庫線と渡り線
(もう1線川崎方に出る渡り線あり。上の方に車内から撮影あり)
 
 
 ↑電停に「小田栄」がある。近年、JRが開業した「小田栄駅」は地図上、
ほぼ平行しているが、川崎には尻手経由の不便さである。
     川崎へは臨港バスの方が繁華街に近い。オサレな住民は尻手乗り換えムサコ?
でお買い物かもだが、乗用車でお出かけの気もする。
 
 ↑↓根性無しが帰宅しようとしたら、川崎駅前電停が惜別乗車で大変な混雑になっていた。ご年配の方も多い。
 第二次世界大戦中の昭和19年10月に部分開業した川崎市電。
爆撃で車両をほぼ失って他所から応援を仰いで必死で工員輸送に明け暮れ、
その後も京急大師線や貨物線と関係を持ちながら結局、昭和44年3月31日を以て営業終了。
たった25年の短い生涯であった。
 
 当ページアップ後に発見された廃止日以前の写真5コマ(苦笑)
 
 ↑川崎駅前↓川崎でボウリングと言へば「ミスボウル」。看板架線柱に引っかかる
 
 
 ↑渡田車庫左側のバスはまさかのトロ・・・。
 
 ↑専用軌道に入る。日本鋼管前電停と記憶するが・・・。
出勤時に使うホームは下車のみで屋根は無し
 
 ↑分岐器が使用不能にされている。4.5km地点。何故か分岐側の架線は生きて居る模様。高速横羽線工事中。
 本稿作成に当たり鉄道ピクトリアル私鉄車両巡り特輯第1輯「川崎市電」益井茂夫様著、
「世界の鉄道1964」(朝日新聞社)、川崎市電WikiI参考にさせて頂きました。執筆者に御礼申し上げます 
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 ※店名略称:フィルムスキャンs、通称店名:鈴木写真変電所 
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